今や俳優としても知られ、数々の映画やドラマで個性を放ってきたピエール瀧。しかしその原点をたどると、そこには“常識破り”とも言えるワイルドな若き日の姿があった。電気グルーヴとしての音楽活動はもちろん、破天荒なエピソードや自由奔放な生き様は、今なお多くのファンの語り草だ。
彼の若い頃を振り返ると、型にはまらないその才能と、生まれながらのエンターテイナーぶりがにじみ出ている。今回はそんなピエール瀧の若かりし日々にスポットを当て、電気グルーヴ誕生の舞台裏や、その魅力に迫っていく。
地元・静岡で育ったピエール瀧、若き日の素顔とは?
ピエール瀧、本名・瀧正則。彼が生まれ育ったのは静岡県静岡市。今では考えられないが、地元ではどこにでもいる普通の少年だったという。野球好きで、特に阪神タイガースの熱烈なファンだったことでも知られている。
高校時代にはすでにその“お調子者”ぶりが際立っており、周囲を笑わせることが大好きな性格だった。仲間内ではムードメーカーとして知られ、学校でも人気者だったという。音楽活動はまだ始まっていなかったが、彼の中にはすでに“人を楽しませたい”というエンタメ精神が芽生えていたのかもしれない。
そんな彼が後に“電気グルーヴ”として、そして俳優としても活躍することになるとは、当時の誰もが予想していなかったはずだ。
電気グルーヴ結成の裏側!石野卓球との出会いがすべてを変えた
ピエール瀧の人生が大きく動き出したのは、石野卓球との出会いがきっかけだった。静岡のライブハウスやクラブシーンで出会った二人は、すぐに意気投合。音楽の趣味も、笑いのツボも、ぶっ飛び具合も全部がドンピシャだったという。
1989年、そんな二人が結成したのが“電気グルーヴ”。卓球がトラックメイカー兼DJ、瀧がMC兼パフォーマーという唯一無二のスタイルで、当時の音楽業界に革命を起こした。テクノをベースにしつつも、バラエティ番組さながらの笑いや皮肉を盛り込んだスタイルは、まさに“電気ならでは”。
音楽だけでなく、ライブパフォーマンスやメディアでの発言も何かと話題になり、電気グルーヴはあっという間にカルト的な人気を獲得。若きピエール瀧にとって、石野卓球との出会いは“運命の衝突”だったと言っても過言ではない。
若い頃から異彩を放つ!音楽・バラエティでの破天荒ぶり
ピエール瀧が“ただのミュージシャン”で終わらなかった理由――それは彼の破天荒すぎるキャラにある。電気グルーヴとしての活動はもちろん、90年代にはすでにテレビ番組にも頻繁に出演し、そのたびに視聴者の度肝を抜いていた。
奇抜な衣装、意味不明な発言、時には放送コードギリギリ(というかアウト)のパフォーマンス……。その自由すぎる立ち振る舞いは、一部から「電波芸人」とまで言われたこともあった。
しかし、そこに一切の計算はなく、全てが“素の瀧”。むしろ彼は「台本を読むくらいなら辞める」と言い放つほど、自分の“ノリ”と“感覚”を信じていた。
音楽とバラエティを自由に行き来しながら、どちらにも媚びず、どちらにも愛された。そんな異端児こそが、ピエール瀧という存在だったのだ。
俳優としての一歩、若き日の挑戦と転機
ピエール瀧が俳優としてのキャリアをスタートさせたのは、音楽界で名を馳せてからのこと。最初は「ミュージシャンの余興」と見る声もあったが、その演技力の高さと存在感が話題となり、徐々に“本物”として注目され始める。
初期の出演作では、独特のクセとリアリティのある演技で、一度見たら忘れられない印象を残した瀧。特にインパクトを与えたのが、映画『凶悪』(2013年)での凶暴な役どころ。観客は「この人、本業は俳優だったっけ?」と思うほどの鬼気迫る演技に震えた。
彼の演技には、“作ってないリアルさ”がある。若い頃から磨いてきた“人を惹きつける力”が、俳優というフィールドでも自然と花開いたのだ。まさに、ジャンルを飛び越える表現者としての才能が爆発した瞬間だった。