高木ブーは若い頃ボクサー!?意外とスポーツ多彩だった学生時代

芸人

ウクレレや雷様でおなじみの、ザ・ドリフターズの高木ブーさん。

高木ブーさんの、シュールなコントは子供の頃からとても好きでした。

特に、1円コントは腹を抱えて笑ってましたねw

今回は、高木ブーさんの若い頃にスポットを当てて記事にまとめてみました。

体型からは想像もできませんが、若い頃はボクシングをしていたんだとか!

ぜひ、最後まで読んでみてくださいね!

目次

高校生の時にボクシング?

高木ブーさんは芸名の由来は、名の通り太っているからブーとなったわけですが、本当にボクシングをしていたのでしょうか?

まず、高校生時代のブーさんを見てみましょう!

全然スリムな体型ですね!

結論から言いますと、高木ブーさんは高校生の時に2年間ボクシングをしていました

ボクシングを始めたのは「強くなりたい」という理由からだそうです。

というのも、当時通学で乗っていた電車はいわゆる不良学生が大勢いたそうで「絡まれたら嫌だなぁ」と心配をしていたそうです。

そんな時に、先輩の勧めで水道橋のボクシングジムに通うことになったんです。

階級はフライ級だったそうで、この階級は体重制限が約50キロですので、高校時代はいかにスリムだったのか?ってことですね!

ボクシングの減量って、ほんとにキツイんですよね。

この経験があったから、リバウンドで体重が増加していった可能性もありますよね。

ボクシングの試合は、何度か出たことがあるそうなのですが、負けることのほうが多かったようです。

そして、「殴られると痛い」「鼻血が出てカッコ悪い」「指にもダメージがある」と思っていたんだとか。

中でも「指にもダメージがある」は、ちょうどウクレレをやっていたというのもあり「今後ウクレレを弾けなくなったら困る」ということで、ボクシングは早々に引退したというわけなんです。

今思えば、ウクレレを優先して正解でしたよね!

高校時代は、すでにウクレレが上手いということで有名だったんですね。

さらに、大学時代にはフェンシングの経験もあるんです!

試合の経験は無いのですが、剣の持ち方や立ち方を教えてもらったそうです。

そしてもう一つがクレー射撃

こちらは、いかりや長介さんの誘いでドリフ全員で始めたそうなんですが、結局みんなすぐ辞めちゃったそうです。

ですが、高木ブーさんだけはコツコツ続けていて「芸能文化人ガンクラブ」の会長に就任するまでになったんです!

ただクレー射撃はテレビで放映されることがまず無いので、それは残念だと語っていました。

と、意外とスポーツ多彩ということだったんですね!

大学卒業後プロのミュージシャンへ

中央大学経済学部に進学した高木ブーさんですが、大学卒業後は東京ガスへの就職が内定していました。

お父さんのコネだったのですが、なんと内定を断ってしまうんです!

というのも、学生時代からハワイアンバンドで活動しており、当時の大卒初任給より多いギャラをもらうこともあったんだとか。

ですので「何とかなるだろう」と楽観的にプロのミュージシャンへの道を決めてしまったんです。

お父さんは「お前の夢だったら仕方ない」と許してくれたそうです。

このことは「すごく感謝してる」と後に語っておりました。

本名は「高木友之助」なのですが、「高木智之」の芸名で活動することになりました。

そして、「高木智之とハロナ・セレナーダス」「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」と自身がリーダーを務めるバンドを結成します。


※中央が高木ブーさん

そうなんです!高木ブーさんは元々はバンドのリーダーだったんですね!

当時は、米軍キャンプをまわることが多かったそうです。

ハワイアンはやはりアメリカ人には人気のカテゴリーですからね!

指定された駅に行くと、米軍のトラックが迎えにきて、そのまま荷台の乗せられ現地に向かったんだとか。

今ではなかなか考えられない光景ですね!

高木ブーさんのバンド以外にも、たくさんのミュージシャンが来ていたようです。

さらに、返還前の沖縄や台湾フィリピンなどを巡るワールドツアーも敢行するなど、ミュージシャンとして多忙な日々を送ることになるのです。

その後、ジェリー藤尾さんから声がかかり「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」のバンドマンとして日本の芸能界での活動を始めることになります。


※一番右が高木ブーさん

そして、このバンドで運命的な出会いをすることになるのです。

その人とは??

そう!仲本工事さんなんです!

1960年代前半にエレキブームが到来したことで新バンド「ロジェ滋野とシャドーズ」が結成されますが、そこでも二人は共に活動することになり、やがてザ・ドリフターズに加入することになるのです。

ドリフ加入は〇〇だったから?

横浜のジャズ喫茶で演奏をしていたある日、前ザ・ドリフリーダーのバンドオーナーだった桜井輝夫さんと、新リーダーであるいかりや長介さんにスカウトされました。

そして、1964年9月16日、ピアニストの欠員補充としてドリフに参加することになります。

元々、いかりや長介さんと加藤茶さんはドリフに在籍しており、高木ブーさんと荒井注さんが同時に加入することになります。

仲本工事さんは翌年の正月頃に加入しました。

ドリフ加入については、自分のバンドも持っていた為、最初は入りたくなかったそうなんです。

というのも、その時すでに高木ブーさんは結婚して娘もいたんですね。

なので、移籍交渉の際は給料を上げてもらえるように話を進めたのですが、いかりや長介さんは全く気づいてくれなかったんだとか。

そこで「娘が産まれたばかりでミルク代がかかる」など世間話を30分ほど続けてやっと気づいてもらえたそうです。

結局、給料5000円アップの提示をしてもらえたのですが、まだ決断ができずに家に帰ったのです。

帰ってから奥さんに相談すると「ドリフに行ったほうがいいんじゃない?」と背中を押してもらい、加入が決まったということなんですね。

この頃、リーダーのいかりや長介さんは「笑わせることのできるバンド」という構想があり、手探り状態での活動がはじまりました。

なんとか形としてまとまるまで1年くらいかかったそうなんですね。

そして、その後のザ・ドリフターズの大活躍はご存じのことと思います。

後年「なぜ自分をドリフにスカウトしたのか?」といかりや長介さんに聞いたことがあったのですが、返ってきた答えが

デブだからだよ

なんでも、メンバーの中にひとりデブがいると、面白みが出るからということなんですね。

ギターのテストなどは何もなかったので、すっかり「バンド経験があるから大丈夫だろう」と思われてたと、勝手に思い込んでたようなんです。

むしろ「さすが長さんだ!」と感心したそうです。

これから「テレビの時代が来る」と読んでいたんでしょうね!

最初の頃は、高木ブーさんが前に出ることが多かったんですが、途中から「加藤を前に出していこう」となり、他のメンバーは加藤茶さんのサポート役にまわるようになったんです。

それが大当たりしたというわけなんですね!

これに対して、高木ブーさんは全く不満には思っておらず、むしろ「どん尻としての役割を果たしたことに誇りを持っている」と後に語っています。

思えば、そんなドリフも高木ブーさんと加藤茶さんしか生きていないんですよね。

まとめ

今回は、高木ブーさんの若い頃にスポットを当てて記事にまとめてみました。

私は、物心ついた時からテレビで8時ダヨやドリフ大爆笑を観ていた世代なので、今はどことなく淋しく感じるとこもあります。

テレビも昔は面白かったですが、今や全く観なくなりましたし、部屋にテレビもありません。

「あの時代はよかったなぁ」と思うということは、自分も年を取ったということでしょうか(笑)

高木ブーさんにはまだまだ活躍してほしいですね!

雷様コントまた見てみたいです!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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