「世界の果てまでイッテQ!」などの人気バラエティ番組で、出川哲朗さんらと共に過酷なロケにも果敢に挑戦し、お茶の間に笑いと元気を与え続けているデヴィ夫人。煌びやかなドレスに身を包み、高級ジュエリーを身につけ、ズバズバと本音を語るその姿は、誰もが認める「日本のトップセレブ」です。
しかし、今の優雅で華やかな姿からは想像もつかないほど、彼女の若い頃は「生きるか死ぬか」の壮絶な貧困と苦労の連続でした。彼女は決して、生まれながらのお嬢様だったわけではありません。己の美貌と、血の滲むような努力、そして並外れた生命力だけで、どん底から世界的なVIPへと這い上がったのです。
本記事では、デヴィ夫人(本名:根本七保子さん)がどのようにして貧困を抜け出し、インドネシア大統領夫人となり、そして世界的なセレブへと登り詰めたのか、その激動のシンデレラストーリーと軌跡を詳しく解説します。彼女の生い立ちを知れば、テレビで見る彼女の言葉一つ一つが、さらに深く、重みのあるものに感じられるはずです。
【生い立ち】極貧だった幼少期〜学生時代
東京の大工の娘として誕生。戦争と貧しさを経験した少女時代
デヴィ夫人は1940年(昭和15年)2月6日、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)で生まれました。本名は「根本七保子(ねもと なおこ)」と言います。港区生まれと聞くと都会のお嬢様のように聞こえますが、父親は目の不自由な大工であり、一家の生活は決して楽なものではありませんでした。
さらに彼女を襲ったのが、第二次世界大戦です。激しい東京大空襲を経験し、福島県への学童疎開も余儀なくされました。戦中・戦後の日本は極度の食糧難であり、幼い彼女は空腹を満たすために道端の雑草を食べたり、サツマイモのツルをかじったりして命をつなぐような過酷な日々を送っていたと語っています。現在の美食家の姿からは想像もつかない、泥水をすするような幼少期だったのです。
家族を養うため…最愛の弟の学費を稼ぐために定時制高校を中退
戦後、中学に進学した彼女は非常に成績優秀で、学ぶことへの意欲が人一倍強い少女でした。しかし、家庭の貧しさは限界に達しており、全日制の高校へ進学する余裕は全くありませんでした。そこで彼女は、東京都立三田高等学校の定時制に進学し、昼間は千代田生命保険(現在のジブラルタ生命保険)などで働きながら、夜に学校で学ぶという生活をスタートさせます。
彼女がそこまでして身を粉にして働いた最大の理由は、「最愛の弟(八曾男さん)を大学に行かせるため」でした。彼女は自身の夢や青春を犠牲にしてでも、弟にだけは十分な教育を受けさせたいと強く願っていたのです。しかし、家計を支えるための労働は過酷を極め、最終的に彼女は定時制高校すら中退せざるを得なくなります。喫茶店などで働きながら、家族の生活費と弟の学費を稼ぐ日々。この「家族を守る」という強い覚悟が、後の彼女の運命を大きく切り開く原動力となっていきました。
運命の夜明け!赤坂の超高級クラブ「コパカバーナ」時代
水割り1杯が大卒初任給!? 一流クラブでのホステスデビュー
生活のために働き口を探していた10代の彼女は、やがて東京・赤坂にあった超高級ナイトクラブ「コパカバーナ」で働くことになります。1950年代のコパカバーナと言えば、ただの飲み屋ではありません。政財界のトップ、各国の要人、ハリウッドスターなどの海外VIPが夜な夜な集う、日本で最も格式高い一流の社交場でした。
当時の大卒初任給が1万円〜1万5千円程度だった時代に、コパカバーナでは水割り1杯が数千円、一晩の支払いが数十万円という、文字通り桁違いの世界。ここに集まるのは、一流の教養とマナーを持った超富裕層ばかりでした。
【画像あり】美貌がレベチ!1日20万円稼ぐ「プリンセス」と呼ばれた10代

このコパカバーナで、彼女の人生は劇的に変わります。圧倒的に整った顔立ち、透き通るような肌、そして10代とは思えない妖艶さと品格を兼ね備えた彼女は、瞬く間にトップホステスへと登り詰めました。ハーフのようなエキゾチックな美貌を持っていた彼女は、外国人VIPたちから「プリンセス」と呼ばれ、寵愛を受けました。
当時の彼女は、一晩で現在の価値にして数百万円に相当するチップをもらうこともあったと言われています。貧しい大工の娘が、自らの美しさを武器に、日本のトップクラスの富が集まる場所で頂点に立ったのです。
努力の賜物。美しさだけでなく英語やマナーを猛勉強した日々
しかし、彼女がトップに立てたのは、決して「顔が美しかったから」だけではありません。コパカバーナに来店する一流の紳士たちと対等に会話をするためには、政治、経済、芸術、そして語学の知識が不可欠でした。
彼女は仕事の合間を縫って、英語の猛勉強を始めます。さらに、テーブルマナー、華道、茶道、日本舞踊からクラシック音楽に至るまで、一流の教養をスポンジのように吸収していきました。「ただのきれいな人形」で終わる気は毛頭なく、「自分の知性と教養を高めること」こそが貧困から抜け出す唯一の道だと分かっていたのです。この時期に培われた語学力と国際感覚が、後に大統領夫人として世界を渡り歩く最強の武器となりました。
激動のシンデレラストーリー!スカルノ大統領との出会い
帝国ホテルでの運命的な出会い。大統領がひと目惚れした理由とは?
1959年(昭和34年)、19歳の彼女に人生最大の転機が訪れます。日本を訪れていたインドネシアの初代大統領、スカルノ氏との出会いです。帝国ホテルでの非公式な場で引き合わせられたと言われていますが、スカルノ大統領は彼女のあまりの美しさと、若さに似合わぬ知性に一瞬で心を奪われました。
スカルノ大統領は大変な親日家であり、同時に芸術を深く愛する人物でした。彼にとって、圧倒的な美貌を持ちながらも、日本の伝統文化を理解し、さらに英語で流暢に会話ができる彼女は、まさに「理想の女性」そのものだったのです。帰国後も大統領からの熱烈なラブレターとアプローチは続き、彼女の心も次第に惹かれていきました。
22歳で海を渡りインドネシアへ!第3夫人「デヴィ・スカルノ」の誕生
大統領の熱烈な求婚を受け入れた彼女は、ついに海を渡りインドネシアへ行く決意を固めます。弱冠22歳のことでした。イスラム教に改宗し、1962年に正式にスカルノ大統領の第3夫人となります。この時に大統領から名付けられたのが「ラトナ・サリ・デヴィ(宝石の精、女神)」という名前です。ここから、現在の「デヴィ夫人」としての人生が幕を開けました。

インドネシアでは広大な宮殿が与えられ、数え切れないほどの使用人に囲まれる、まさに夢のようなセレブ生活が始まりました。大統領は彼女を深く愛し、どこへ行くにも彼女を伴い、公私ともに最も信頼するパートナーとして扱いました。
圧倒的なセレブ生活の裏にあった、日本人としての苦悩とバッシング
しかし、このシンデレラストーリーの裏には、重く苦しい影もありました。当時の日本国内では、「大統領の愛人になった」「金目当てだ」という心無いバッシングやゴシップ記事が連日報じられました。さらに悲劇的なことに、彼女が何よりも大切にしていた弟の八曾男さんが、周囲からの心無い中傷やプレッシャーに耐えきれず、大学在学中に自ら命を絶ってしまったのです。
「弟を立派にするために生きてきた」彼女にとって、これほどの絶望はありませんでした。インドネシア宮殿の豪華なベッドで、一晩中泣き明かしたこともあったと語っています。さらにインドネシア国内でも、若くして大統領の寵愛を独占する外国人妻への嫉妬や、政治的な陰謀が渦巻いていました。彼女は決して安泰なセレブではなく、常に孤独や嫉妬と戦う「戦場の妻」でもあったのです。
大統領夫人から亡命へ…パリ社交界で「東洋の真珠」と呼ばれるまで
軍事クーデター勃発。最愛の夫との別れとパリへの亡命
幸せな時間は長くは続きませんでした。1965年、インドネシアで「9・30事件」と呼ばれる大規模な軍事クーデターが勃発します。スカルノ大統領は実権を奪われ、軟禁状態に置かれてしまいました。
当時、大統領との間の子供(カリナさん)を身ごもっていたデヴィ夫人は、お腹の子供を守るために命からがら日本へ帰国し、出産します。その後、政治的な事情から日本にも留まることができず、フランス・パリへの亡命を余儀なくされました。そして1970年、最愛の夫・スカルノ大統領が失意の中でこの世を去ります。彼女は30歳という若さで未亡人となり、幼い娘を抱えて異国の地に放り出されることになったのです。
ただの未亡人では終わらない!フランス社交界を席巻した美貌と知性
普通の女性であれば、ここで悲劇の未亡人としてひっそりと暮らしたかもしれません。しかし、デヴィ夫人は違いました。持ち前の反骨精神と語学力(英語、フランス語などをマスター)、そして洗練されたマナーを武器に、パリの華やかな社交界(ハイソサエティ)に単身で飛び込んでいったのです。
彼女のエキゾチックな美貌と、元大統領夫人という経歴、そしてウィットに富んだ会話術は、すぐにヨーロッパの貴族や大富豪たちの間で評判となりました。名だたる王族や、俳優のアラン・ドロンなどの世界的スターとも交友を深め、いつしか彼女はヨーロッパ社交界で「東洋の真珠(パール・オブ・オリエント)」と称賛されるようになります。
ただ同情されるのではなく、自らの魅力と実力で、世界で最も格式高いヨーロッパ社交界の頂点へと再び上り詰めたのです。この「転んでもただでは起きない」圧倒的なバイタリティこそが、デヴィ夫人を単なる大統領夫人から「世界的なセレブ」へと押し上げた最大の理由と言えるでしょう。
まとめ:貧困から這い上がったデヴィ夫人の生き様から学べること
ここまで、デヴィ夫人の生い立ちからインドネシア大統領夫人、そしてパリ社交界での活躍に至るまでの軌跡を振り返ってきました。
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戦後の極貧生活の中、弟のために働き高校を中退した苦労人
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「コパカバーナ」でトップホステスとなり、語学やマナーを猛勉強
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スカルノ大統領に見初められ、22歳で第3夫人となるシンデレラストーリー
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クーデターによる亡命と夫の死を乗り越え、パリ社交界で「東洋の真珠」に
彼女の人生を振り返ると、現在のバラエティ番組で見せる「何事にも物怖じしない強さ」や「芯の通った発言」が、並大抵の経験から来ているものではないことがよく分かります。
デヴィ夫人が世界的なセレブになれたのは、決して生まれ持った「美貌」や「運」だけがあったからではありません。圧倒的な逆境に立たされても決して諦めない「強靭なメンタル」と、自分を磨き続ける「努力」、そして家族を想う「深い愛」があったからです。
「自分の運命は、自分で切り開く」。貧困から世界の頂点へと駆け上がったデヴィ夫人の波乱万丈な軌跡は、現代を生きる私たちに、力強い勇気と生きる活力を与えてくれます。次にテレビで彼女の姿を見かけた時は、その輝く笑顔の裏に隠された壮絶なドラマを、ぜひ思い出してみてください。